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トマス・アクィナス [哲学のヒトタチ]

トマス・アクィナス

 トマス・アクィナスの思想として、トマス・アクィナスが生きた時代は、キリスト教というイエスの教えを真とする考えが主流でした。
 その頃は、イスラム社会から、アリストテレス哲学が流入してきた時期で、アリストテレスの哲学と聖書の教えの矛盾はありました。
 当時、哲学の真理と神学の真理は別々のものでした。
 このことを二重真理説と呼ばれていました。
 そこで、トマス・アクィナスは、キリスト教思想とアリストテレス哲学を統合した総合的な哲学体系を構築しようとしました。
 トマス・アクィナスの最大の願いは、宇宙のすべてが理にかなったものとして説明することでした。
 これは、キリスト教の心理と哲学の心理と矛盾しないものであることを意味します。
 このトマス・アクィナスの思想には、すでに合理主義的な傾向が明瞭にあるといえます。
 それゆえに、トマス・アクィナスは、中世哲学の大きなテーマの、知と信仰を明瞭に区別するとともに、両者の関係を基礎付けようとしました。
 その中で、トマス・アクィナスが証明しようとしたものの一つ、神の存在証明というものがあります。
 一般に、神とは、人間を超えた存在で、人間に対し禍福や賞罰を与え、信仰や崇拝の対象となるもので、特に、哲学では、世界や人間の在り方を支配する超越的な最高存在ということになり、トマス・アクィナスは、このような神が実在するものであると証明しようとしました。
 トマス・アクィナス以前において、キリスト教の中心である神そのものについて明確な答えはありませんでした。
 トマス・アクィナス以前は、人間の理性の限界とされ、理性では神がどういうもか分からないことを指摘します。
 このことについて、トマス・アクィナスは,神は無限の存在であるものの、人間は神が創りだした有限の存在に過ぎないからであるとします。
 つまり、人間と神では存在の意味そのものが違うのであるとしました。
 有限の人間には、不確かな真理しか認識することができないのは必然で、無限の神の一部しか認識しえないというわけです。
 そして、トマス・アクィナスは、キリスト教の教えを、聖書の言葉だけではなく、自然の理性のうちに、自然の光に依拠して議論を進めたいと考えました。
 なぜなら、キリスト教の教えは、キリスト教徒にのみ受け入れられるものであり、異教徒は聖書の権威を受け入れないからです。
 つまり、いままでの哲学では、聖書の言葉をつかって説明していたけれど、他の宗教の人にもわかるような言葉で証明しようとしたということです。
 もちろん、いきなり、すべて自然的理性では信仰に関する究極的な部分を論証できるとしたわけではありません。
 論証できない部分は、できない部分は仕方が無いとした上で、保留したのです。
 この保留は、証明を最初からあきらめたということではなく、保留することで、神の存在が真理であれば、その部分は、いずれ真理であれば、ある部分は論証できるだろうと考えたのです。
 つまり、証明できないから、間違いではなく、証明できないところは、正解とか不正解とかはいえないから、保留しつつ、それを信じて証明の努力をし続けるということです。
 たとえば自然的理性は神の存在や魂の不死性を論証することはできる反面、三位一体や受肉、最後の審判のごとき教義は証明できないとトマス・アクィナスは考えました。
 そして、神を認識し、絶対的な真理に到達するには,どうしても、信仰と聖書による啓示が必要であると、トマス・アクィナスは考えました。
 この考えは、哲学的な真理を否定するのではなく、哲学的真理は、神ならざる人間という有限な存在に規定された真理としてあつかったのです。
 つまり、人間にだけ当てはまるのではなく、人間が認識できる真理ということです。
 これは、 神が人間を創造し、人間に存在を与えたという事実によって、このふたつの真理が対立するのではなく、お互いに補い合う原理となるとトマス・アクィナスは考えたのです。
 次に、トマス・アクィナスは、旧約聖書において、神は有ててあるもの、つまり、存在と言う規定以外にもたないものとされていました。
 つまり、神は神という以外、人間に、神についてのありさまを定めることはできないというのが、旧約聖書にかかれて到って言うことです。
 これは、トマス・アクィナスは、改めて、神の存在証明はできないといったことと同意ともとれます。
 そこで、トマス・アクィナスは、最低限の規定をあたえるために、神を本質と存在が一体化しているものとして最低限の規定しました。
 これは、トマス・アクィナスは、神のことを疑って存在証明をしようとしたわけではなく、むしろ、神の存在をより確実なものとして認識するために証明を試みたと考えられます。
 このことにより、トマス・アクィナスが、すべての普遍は神の中にある、あるいは、神こそが普遍のなかの普遍だと説いたところから見受けられます。
 つまり、そもそも神こそが真理なのだから、真理であれば、存在証明はできるって考えたということです。
 トマス・アクィナスの卓越した思想は、そうした普遍を中心に人知では知ることができないものとしての神をおいたところでしょう。
 神は無から質料と形相を生みだし、質料と形相によって世界を創造し質量と形相を結び合わせて、新しいものを次々とうみだし、今も継続して行われている、とトマス・アクィナスはいいました。
 これは、神様は、まだ世界を作っていということになります。
 たしかに、物質的な質料と観念としての形相は区別されるのが、通常
ですが、神様の場合は、それらは一体化しているので、神の本質と存在
は、通常とは違う意味になるわけではないのですね。
 そして、トマス・アクィナスは、神にいたる道は2つあると考えていました。
 ひとつは、純粋な信仰と掲示です。
 もう一つは、理性と感覚、つまり、トマス・アクィナスは、道理として神の存在が証明できると考えたのです。
 人間がすべてには第一原因があるはずだと認識できるのは、人間に理性があるからだと、トマス・アクィナスは考えたからです。
 そして、アリストテレスも、物事の原因を突き詰めていけば、原因が無限に連鎖するのではなく、第一原因があると考えました。
 これは、仮に、無限に続くのであれば、第一原因か存在しないことになるからです。
 なぜなら、物事には必ず始まりがあるからです。
 つまり、第一の原因が存在していることになるのです。
 もし、第一原因がないのであれば、物事に始まりはありません。
 しかし、実際は何事にも始まりが存在します。
 たとえば,杖がものを動かすのは,何者かの手により、杖が動かされます。
 これは、杖という第二次的な諸動者は、杖を動かす第一原因によってのみ動かされます。
 トマス・アクィナスは、何ものによっても動かされることのない何か第一の動者にまで至ることは自明だと考えました。
 そして、トマス・アクィナスは、すべての人々の第一原因は、神と解釈としたわけです。
 とはいいつつも、トマス・アクィナスは、神が人間を操っていると考えていたわけではありません。
 トマス・アクィナスは、キリスト教においては聖書が理性をとおして人間たちの前に啓示していると考えていたのです。
 これは、キリスト教において、神は聖書をとおして、倫理や道徳というものを含めた教えを伝え、多くの人に、良心に基づいた倫理や道徳に従った行動をとるべきだと人間に掲示したということです。
 つまり、人間には良心が存在し、各自の良心と判断基準によって、自然と善悪が区別できるようになっているということです。
 たしかに、聖書をよまなくても、たいていの人は、各自の良心に従って行動すれば、他の人を苦しめてはいけないと感じてしまいますこのように、その良心の基準は人それぞれですが、自分が苦しんでいるときに助けてもらいたいと思うように、他者もそうしてあげるべきだと感じてしまうように、共通しているわけです。
 このように、トマス・アクィナスは、聖書を通して、倫理や道徳を伝えていることこそが、神の存在証明であるとして、神の存在証明を行ったわけです。
 また、トマス・アクィナスは、神の存在証明だけではなく、本質と存在の関係について、考察しました。
 本質とは、哲学でいえば形相やイデアのことです。
 まず、トマス・アクィナスは、形相やイデア、あるいは普遍が実在するものであることを証明しようとしました。
 トマス・アクィナスが扱った大きなテーマの一つに、存在を巡る問題がありました。
 さて、存在問題をはじめて、主題としてあつかい、存在論のモデルを作ったのはアリストテレスですが、アリストテレスは現実に存在するものを実感できる現実態、エネルゲイアとし、このようなという一般性で捉えることを可能態、デュナミスとします。
 トマス・アクィナスは、アリストテレスが、可能態、デュナミスとして、あらゆる事物の中に形相が存在するといったことを承けて、普遍は個々の事物の中に入っており、それがあるからこそ個々の事物が存在することができる、と主張しました。
 たとえば、一本の木があったとします。
 その木は他の木とよく似ていますが、木の形、色、高さは他の木とちがいによって区別できます。
 それでも、私たちは、その一本の木だけを木と呼ぶのではなく、他の木も木とよんでいます。
 これは、一本の木を木としているのは、木の形、色、高さのような、個々の木の区別できる具象ではなく、木が木として存在しているという木であることが、木の普遍だということです。
 これは、複数ある木それぞれの特徴や個性など以前に、複数ある木が木とよばせている、木の元みたいなものが一本、一本の木の中にあるということを意味します。
 このように書くと、難しく感じますが、考えることなく、目の前にある木と、遠くにある石の区別がついているはずです。
 それは、木が木であるという形相をすでにしっているからです。
 さて、アリストテレスは、普遍的なあり方にこそ存在があると考えました。
 それに対して、存在を多の上に立つ一つの者としたのがプラトンでした。
 さて、トマス・アクィナスはアリストテレス的な現実態として、存在把握を基本としながらも、現実態と可能態の二つの存在感を統合しようとしました。
 現実態とは、働きや活動を意味しますが、トマス・アクィナスはそれを最高の現実と捉えました。
 現実態を最高の現実としたとき、最高でない存在があるわけですが、存在自体は一者であり、自己同一的な存在であるわけです。
 となると、働きと自己同一性こそが存在の根源的な性格であると考えたわけです。
 そこから、存在が現実態としての多様な存在者に与えられるのは、存在者の普遍的な本質を通してであると説いたのです。
 たとえば、赤ん坊がいて、その赤ん坊が将来大人になっても、赤ん坊も、大人も同じようなものです。
 人に限らず、木も同じことが言えます。
 木は種から芽をだし、生長し、大きな木になります。
 それぞれの状態は、違っても同じ木であることはかわりありません。
 ただ、問題がないわけではありません。
 本質があるからといって、存在するわけではないのです。
 たとえば、おとぎ話の桃太郎に登場する鬼は、鬼という本質がありますが、鬼という生き物が実際に存在しないことは自明です。
 一方、現実の世界で、桃という果物は、桃という本質をもち、桃という果物が存在します。
 そこで、トマス・アクィナスは、本質と存在と同一のものとして扱わず、別々のものとして区別したのです。
 この本質と存在の関係を踏まえて、アナロギアについて話したいと思います。
 トマス・アクィナスは、存在の本質には、さまざまな段階があり、存在は書く存在者の本質の程度に応じると考えました。
 ここでいう段階がアナロギア、類比です。
 たとえば、神の知性という形は、人間の理性としての形としたとえられられます。
 キリスト教では、人間は神に似せて作ったとされています。
 その意味で、神の知性も人間の理性も、一つの形として、主観を交えず、対象のあるがままの姿を眺めるものとしての知性では、認識原理という関係性で一致しているといい得るわけです。
 神の知性も人間の理性の本質的な類似のことをアナロギアというわけです。
 これは、たまたま人間に当てはまる存在という言葉を当てはめただけという指摘は可能かもしれません。
 たしかに、人間の頭や足などの体の部位と体の関係を釘の頭とか、机の足といったように、私たちは、人間に当てはまる存在という言葉を類比的に神にあてはめているのに過ぎず、その真相は決してわからないわけですが、他にも関係性があることも指摘されています。
 分有の関係性というもので、いわゆるイデアや形相と、それに分け与える形のことです。
 トマス・アクィナスは、有限な人間に「存在」そのものを認識することは出来ませんが、それが、神の存在は人間存在とはまったく異なることの証明ではないと考えました。
 神が真理であるわけですから、有限な存在から無限の存在というアナロギアがあるとトマス・アクィナスは考えました。
 つまり、人間は、自分の知性を不完全で有限としながらも、実際体験できないことも、知覚による経験を通して、アナロギアという手段によって、完全な神に近づけるって、トマス・アクィナスは考えました。
 有限で不完全な存在であっても、そのをアナロギアによる類推によって神が存在するといい得るとトマス・アクィナスは考えたわけです。




 

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