ディベートについて(後編) [哲学手記]
ディベートについて(後編)
ディベートが哲学的思考だなぁ。
と思うのは、必ずしも自分の判断と所属する「派」が一致するとはかぎらないということです。
自分が正しくない。あるいは、正しいと思っていることも、客観的に、公的に分析して議論やらディスカッションをしなくちゃいけないわけです。
まぁ、これは、ディベートならではの醍醐味。
議論や討論だったら、そもそも、自分で納得したり、正しいと思うことをいちいち客観的に、公的に分析なんかしないもの。
で、さらなるポイントは、根拠を公的(パブリック)なものにしなくちゃいけないということです。
これは、その社会、団体の中の人々に関わるようなものがパブリックということですが、いわゆるその社会、団体の中で通用する価値観を提示しなくちゃいけないということです。
まぁ、自分の常識ではなく、その社会における常識を根拠にしなさいということです。
逆に、当事者だけしか関係しない、もしくは、そもそも複数の者に共通的な判断が不要なものをプライベートというけれど、プライベートなこととか、自分にとって普通だと感じることを根拠にしちゃいけないということです。
なぜなら、ディベートの場合は、あくまで「公的」な、何らかの「論題」や、「提案」を巡って意見を戦わせ、その判断としては、その社会、団体のメンバー、あるいはメンバーの代表者の投票などによって「全体」としてその「提案」を採用するか否かを決めるべきということです。
つまり、ディベートの決着は、発言者間の双方の合意のみで決着をつけることは避けなければいけないわけです。
で、ディベートにおいて、発言者の「人格」に対する議論ではなく、「議論内容、論拠」に関する議論が行われることが重要です。
誰が発言したかは問題ではなく、何を発言したのかということが重要だということです。
ですから、発言者の人格(普段の言動および、その人に対する感情)はもちろん、社会的地位、年齢、等の「属性」に頼った議論は厳禁です。
それはなぜか?
人格や属性に関する議論は、適切な結論を導き出すために全く役に立たないのです。
もし、人格をはじめとした、社会的地位、年齢、等の「属性」に頼ったその上、フレーム問題に発展しかねないのです。
もちろん、これは、ディベートに限ったことではありません。
で、ディベートを行うために必要な(ディベートによって身に付く)能力(技術)は、下記の通りです。
(1) 理解力
(2) 分析力(批判的思考力)
(3) 構成力
(4) 伝達力
の4点が重要だと思っているんだよね。
(1) 理解力
とは、相手の言っていること、および、その知的背景について理解すること。
相手が何を論旨とするか理解せずに、反論するのは、単なる主張であって議論ではありません。
(2) 分析力(批判的思考力)
相手の主張を理解後、その内容を吟味して、その論証が十分な根拠を有しているか等を客観的に分析する能力のことです。
また、相手の主張における論証が十分な根拠を有しているかを分析するのみならず、相手の主張と自らの主張との一致点と相違点を明確にし、相違点についてなぜそのような相違が発生するのかを分析し、自らの主張を正当化できる能力も含まれるわけです。
(3) 構成力
自らの発言内容をわかりやすく、説得力があるように構成する能力のこと。
構成力には、議論の組み立て方、並べ方、表現の選択等を適切に行う能力も含まれます。
(4) 伝達力
どんなに構成が優れていても、それを文章として、伝える能力のこと。
とくにディベートは、相手だけではなく、第三者にも伝えなくてはいけない。
私、呟き尾形の経験上「書かれた内容」と「相手が理解した内容」は、基本的に一致しない場合が多いといえるでしょう。
言いたいことより、伝えたいこと。これはけっこう重要だと言えるでしょう。
関係者の判断を求める立場上、発言者は、自らの考えを関係者全てに効率よく伝達するプレゼンテーション能力が求められます。
説明を相手がよく理解できなかったときに、「ちゃんと聞いていないからだ」と聞き手を責める人がいます。
まぁ、実際、そんな時もないとは言わないけれど、ディベート(プレゼンテーションもそうだけど)において、関係者に判断をゆだねる立場上、「ちゃんとわかるように説明できなかった方が悪い」という認識をもたないといけません。
さて、私、呟き尾形が、ディベートというものに注目するのは、意見交換、対話、会議、議論、討論、にも必要な要素が多分に含まれ、その要素がディベート
がもっともシビアに必要に迫られます。
そして、多くの人がその技術を身につけ、議論をすることができれば、もっとすばらしい社会が形成されるだろうと思います。
ときおり、いわゆるディベートの要素あるいはその技術は単なる詭弁の技術や、いたずらに対立をあおるものではないかと思われることもあります。
確かにいくらでも悪用する余地はあります。
でも、ディベートの目的を理解し、ディベートの技術を身につければ、そうなるはずもありません。
何事にもいえますが、技術や道具はいくらでも悪用する余地はあります。
しかし、多くの技術や道具の目的は、悪用されるために創り出されたものではありません。
実際、議論におけるさまざまなトラブルはディベートの要素が無視されたときに生じている場合が大変多いといえるでしょう。
国会の放送を見て見苦しいと思えるのは、上述したディベートの要素を欠いて、批判だけを目的だったとかそんな場合です。
もちろん、逆に「おお!」と賞賛したくなるような議論も、国会においてあるのはたしかです。
そうしたときは、必ず、ディベートの要素が含まれています。
さて、ディベートというのは、哲学的思考だなぁ。と、私、呟き尾形は思っています。
哲学をする上で、どうしても自問自答が必要になる。
たとえば、一人ディベートということをしたらどうなるでしょうか?
まさに、哲学的思考といえると考えます。
★★★呟き尾形のホームページ 白い時計塔のある村の更新情報
さて、ここからはホームページ更新情報です。
http://homepage2.nifty.com/SON/
今回は、呟き尾形の哲学講座、中世哲学 スコラ哲学 エックハルト アナロギア 1 を更新しました。
次に、リンク集 占いリンク集と資料系リンク集に、 MyAstroChartを追加しました。
★★★ 史上初「哲学」と「萌え」の融合企画 哲学的な彼女 ★★★ ★★★ 楽天 で アフィリエイト ★★★ ★★★ 呟き尾形のアンケート コーナー (アバウトミーのアンケート)16 ★★★パンジー で アフィリエイト★★★ どうも、アクセス解析していると、「パンジー」というキーワード で、検索されているらしいです。 そこで、該当しそうな記事をリンクしておくことにしました。 パンジー http://son.cocolog-nifty.com/tetugaku/2004/10/post_3.html ★★★
ディベートが哲学的思考だなぁ。
と思うのは、必ずしも自分の判断と所属する「派」が一致するとはかぎらないということです。
自分が正しくない。あるいは、正しいと思っていることも、客観的に、公的に分析して議論やらディスカッションをしなくちゃいけないわけです。
まぁ、これは、ディベートならではの醍醐味。
議論や討論だったら、そもそも、自分で納得したり、正しいと思うことをいちいち客観的に、公的に分析なんかしないもの。
で、さらなるポイントは、根拠を公的(パブリック)なものにしなくちゃいけないということです。
これは、その社会、団体の中の人々に関わるようなものがパブリックということですが、いわゆるその社会、団体の中で通用する価値観を提示しなくちゃいけないということです。
まぁ、自分の常識ではなく、その社会における常識を根拠にしなさいということです。
逆に、当事者だけしか関係しない、もしくは、そもそも複数の者に共通的な判断が不要なものをプライベートというけれど、プライベートなこととか、自分にとって普通だと感じることを根拠にしちゃいけないということです。
なぜなら、ディベートの場合は、あくまで「公的」な、何らかの「論題」や、「提案」を巡って意見を戦わせ、その判断としては、その社会、団体のメンバー、あるいはメンバーの代表者の投票などによって「全体」としてその「提案」を採用するか否かを決めるべきということです。
つまり、ディベートの決着は、発言者間の双方の合意のみで決着をつけることは避けなければいけないわけです。
で、ディベートにおいて、発言者の「人格」に対する議論ではなく、「議論内容、論拠」に関する議論が行われることが重要です。
誰が発言したかは問題ではなく、何を発言したのかということが重要だということです。
ですから、発言者の人格(普段の言動および、その人に対する感情)はもちろん、社会的地位、年齢、等の「属性」に頼った議論は厳禁です。
それはなぜか?
人格や属性に関する議論は、適切な結論を導き出すために全く役に立たないのです。
もし、人格をはじめとした、社会的地位、年齢、等の「属性」に頼ったその上、フレーム問題に発展しかねないのです。
もちろん、これは、ディベートに限ったことではありません。
で、ディベートを行うために必要な(ディベートによって身に付く)能力(技術)は、下記の通りです。
(1) 理解力
(2) 分析力(批判的思考力)
(3) 構成力
(4) 伝達力
の4点が重要だと思っているんだよね。
(1) 理解力
とは、相手の言っていること、および、その知的背景について理解すること。
相手が何を論旨とするか理解せずに、反論するのは、単なる主張であって議論ではありません。
(2) 分析力(批判的思考力)
相手の主張を理解後、その内容を吟味して、その論証が十分な根拠を有しているか等を客観的に分析する能力のことです。
また、相手の主張における論証が十分な根拠を有しているかを分析するのみならず、相手の主張と自らの主張との一致点と相違点を明確にし、相違点についてなぜそのような相違が発生するのかを分析し、自らの主張を正当化できる能力も含まれるわけです。
(3) 構成力
自らの発言内容をわかりやすく、説得力があるように構成する能力のこと。
構成力には、議論の組み立て方、並べ方、表現の選択等を適切に行う能力も含まれます。
(4) 伝達力
どんなに構成が優れていても、それを文章として、伝える能力のこと。
とくにディベートは、相手だけではなく、第三者にも伝えなくてはいけない。
私、呟き尾形の経験上「書かれた内容」と「相手が理解した内容」は、基本的に一致しない場合が多いといえるでしょう。
言いたいことより、伝えたいこと。これはけっこう重要だと言えるでしょう。
関係者の判断を求める立場上、発言者は、自らの考えを関係者全てに効率よく伝達するプレゼンテーション能力が求められます。
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がもっともシビアに必要に迫られます。
そして、多くの人がその技術を身につけ、議論をすることができれば、もっとすばらしい社会が形成されるだろうと思います。
ときおり、いわゆるディベートの要素あるいはその技術は単なる詭弁の技術や、いたずらに対立をあおるものではないかと思われることもあります。
確かにいくらでも悪用する余地はあります。
でも、ディベートの目的を理解し、ディベートの技術を身につければ、そうなるはずもありません。
何事にもいえますが、技術や道具はいくらでも悪用する余地はあります。
しかし、多くの技術や道具の目的は、悪用されるために創り出されたものではありません。
実際、議論におけるさまざまなトラブルはディベートの要素が無視されたときに生じている場合が大変多いといえるでしょう。
国会の放送を見て見苦しいと思えるのは、上述したディベートの要素を欠いて、批判だけを目的だったとかそんな場合です。
もちろん、逆に「おお!」と賞賛したくなるような議論も、国会においてあるのはたしかです。
そうしたときは、必ず、ディベートの要素が含まれています。
さて、ディベートというのは、哲学的思考だなぁ。と、私、呟き尾形は思っています。
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たとえば、一人ディベートということをしたらどうなるでしょうか?
まさに、哲学的思考といえると考えます。
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さて、ここからはホームページ更新情報です。
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今回は、呟き尾形の哲学講座、中世哲学 スコラ哲学 エックハルト アナロギア 1 を更新しました。
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2011-01-03 20:05
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